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本サイト館主の全編書き下ろし
アジア10カ国の戦跡旅行記。戦跡データ&地図、年表、戦争史、写真などの詳細データを付記した、アジア近・現代戦史の手引き書。A5版388頁、2500円
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トップページコラムジャーナリズム点描第3話
第3話「母の名は、エノラ=ゲイ」・・・テニアン島にて(2004年3月10日)
(1)記念プレート(2)表彰式(3)言論の不自由(4)伝わりやすい声(5)武器がもたらすもの(6)標的

母の名はエノラ=ゲイ(1)―『記念プレート』

激戦地だったテニアン島の北部に、4本の滑走路が平行して残る。風が強く、コンクリートに跳ね返る日ざしが強烈で、体中から汗がしたたり落ちる。ここが、かつて日本軍が使い、その後に米軍が拡張したハゴイ空軍基地跡である。米軍の演習で現在も使用されるということで、ライフル銃の殻薬きょうが無数に落ちていた。

ここの一番北側の滑走路脇に、原爆搭載機の記念碑が二つある。

二つならんだ記念碑の右側が第一記念碑(広島)、左側が第二記念碑(長崎)である。記念碑のプレートに刻まれた文字の全文は、以下の通り(原文は英語)。

「第一爆弾搭載場(原子爆弾搭載場) この搭載場から、戦闘で最初に使用された原子爆弾がB−29に搭載されて飛び立ち、1945年8月6日、日本の広島に落とされた。爆撃機のパイロットは、米陸軍航空部隊第20師団509混成爆撃隊ポール・W・ティベッツ・ジュニア大佐。1945年8月5日の午後遅くに離陸、翌朝2時45分に司令を受けて爆撃。核爆弾発射調整のため、ウィリアム・S・パーソン海軍大尉が同乗した」

「第二爆弾搭載場(原子爆弾搭載場) この搭載場から、戦闘で使用された第2の原子爆弾がB−29に搭載されて飛び立ち、1945年8月9日、日本の長崎に落とされた。爆撃機のパイロットは、米陸軍航空部隊第20師団509混成爆撃隊チャールズ・W・スゥイニー少将。1945年8月10日午前3時に爆撃。日本の天皇は、内閣の同意を得ないまま、太平洋戦争終結を決心した」

米国が作った記念碑には、米国側の視点が刻まれている。

 

母の名はエノラ=ゲイ(2)―『表彰式』

2004年3月10日の昼前ごろ、テニアン島の原子爆弾積荷場跡を再訪した。第一記念碑の前に米海軍のヘリコプターが一機止まっていた。それまで、テニアン島では現役の軍人を見かけなかった。ヘリを使っていることから、別の場所からわざわざここを目指してやってきたと察せられる。

指揮官1人、上官2人、その他5人、と見受けられる白人の軍関係者総勢8人が、この記念碑の前で、何かの表彰式を行っていた。

なごやかな顔つきで敬礼している。オナー(栄誉)という言葉が風にのって聞こえてくる。「離陸するときに風がきついから、車をもっと横に寄せてくれないか」と部下とおぼしき人が言いに来る。ほどなくして爆音・強風とともに、小石を跳ね飛ばしながら、ヘリは垂直に舞い上がり去って行った。

ギュイーン、キュィーン、キーン、キーン‥。

爆音が遠ざかる。

原爆が落とされた後の出来事を、あの人たちは知らない?

話をかつてのテニアンに戻そう。509混成爆撃隊は、当時テニアンに配置されていた313爆撃団とは別扱いの特別編成隊だった。ウェンドーバーとバチスタの飛行場で特別訓練を積んだ腕利きのパイロット集団だった。特殊任務のため、少人数で行動し、食事も格段に良かったという。

広島にガン・バレロ型原子爆弾「リトルボーイ」を落としたB−29の名前は、「エノラ=ゲイ」。原爆投下前夜に、509混成爆撃隊の指揮官ポール・ティベッツ大佐が、作戦の成功を願って命名した、自分の母親の名前である。

広島ヘ向かったティベッツらは、テニアン出発後12時間13分間後に、任務を完遂して帰還した。200人以上の関係者が出迎えた。重量の大きな「リトルボーイ」のせいで、離陸や飛行は難しいとされていた。太平洋戦略空軍指令官カール・スパーツ将軍は、その快挙に対し、自らティベッツに「殊勲十字章」をつけたという。その誉れの感覚が、今も息づいている。

 

母の名はエノラ=ゲイ(3)―『言論の不自由』

ぎらぎらと陽炎がゆらめくエ―ブル滑走路の真ん中に立って、真っ青な空を見上げる。紆余曲折を経て展示内容がすっかり変わってしまった米国スミソニアン航空宇宙博物館の「終戦50年記念特別展示」を思い出す。

アメリカの航空技術の発達を世界に向けて伝えてきたスミソニアンが、100万ドルをかけて原爆搭載機の一部を修復した。それを、終戦50周年の記念に、特別展示しようと企画した。

展示内容には、原爆の被害を伝えるコーナーも加える予定だった。この展示内容全体の脚本が明らかになって、大論争がアメリカで起きた。米国政府やメディア、特に退役軍人会などの圧力よって、原爆による被害展示の部分を引っ込める結果に終わった(詳しくは、『葬られた原爆展 スミソニアンの抵抗と挫折』(フィリップ・ノビーレ バートン・J・バーンステイン著、三国隆志他訳、五月書房、1995年)などを参照のこと)。

軍事大国米国の核心にふれる出来事だった。米国では、もし原爆によって第二次世界大戦が終わっていなければ、50万人以上の米兵がさらに亡くなっていただろう、という説が今も有力である。亡くなるだろうと予想される兵士の数には諸説あるが、原爆投下の正当性がそこにあることに変わりはない。

今日、世界的にも米国国内にも、大量兵器があったかどうかの不確かさから、イラク爆撃の正当性に疑念を挟む声がある。しかし、原爆投下の正当性は、アメリカにとって、リメンバー・パールハーバーの意識とあいまって、省みられることがはばかられる。むしろ、「私たちの息子(兵士たち)を救ってくれた」と称える空気の方が一般的だろう。

結局、原爆に関しては、歴史を知る「学問の自由」や、展示内容に関する「表現の自由」より、強烈なカウンター・ロビイングの方が、戦後50年たっても強かった。米国ジャーナリズム研究において、修正第一条の意味を問う、非常に興味深い事例だった。

 

母の名はエノラ=ゲイ(4)―『伝わりやすい声』

人間は誰でも、自分に都合の良いことを積極的に聞き、意識する。聞きたくないことを、無意識に避ける。こういった情報行動を、専門的には先有傾向という。

被害を生んだ側は、被害を受けた側の声に、なかなか耳を貸そうとはしない。公害でも薬害でも、戦災でも、その行動パターンは同じである。被害に関する情報は、被害を受けた側が声を上げなければ、なかなか世の中の知るところとならないのである。

さらに、今日の戦争情報は、武器を使用された側の声より、武器を使用する側の声が大きく伝わるしくみになっている。そのことを、情報を伝えることを専門とする職能にある人びとは、肝に銘じて欲しい。

その顕著な例が、米国の従軍記者制度やプール取材などである。これらは、ナチのプロバガンダとは異なり、ジャーナリズムの送り手そのものが宣伝マンとなりうるしくみである。

例えば、今回のイラク戦争では、米軍の許可を得て同行する一般紙記者たちは、埋め込み式といわれる米軍広報作戦の重要な戦力となった。記者たちは、何日間も兵士たちと寝食を共にし、兵士たちに身を守ってもらう結果となる。米兵たちと人間的な交流も生まれる。米軍内部に寝起きしていれば、イラクからの砲撃は敵の砲撃となる。自分の身が危険にさらされれば、知らず知らずのうちに相手に敵意を持つ。従軍記者たちは、もちろんその仕組みを分かっている。それでも、ジャーナリストも人間である。

なにより、今日の情報社会では、情報量の多少が、イメージを作る重要な要因である。スキャンダルな汚名ばかりであっても、頻繁にマスコミに登場することで、大物であり続けるスターもいる。忙しい人びとは、全く知らないものに関心をもたない。慣れているものに関心を寄せ、頻繁に接するものに親近感を持つようになる。

イラク戦争では、従軍記者でないジャーナリストが何人も、米軍の「誤射」でなくなっている。従軍記者でないジャーナリストたちの多くは、米軍の武器の向こうに暮らす人びとや、イラクの言い分を伝える人たちである。

「戦争では常に、戦争当事者にとって、被害者は目に見えては困るものなのだ」。テレビインタビューでコメントしていた写真家・広河隆一氏の言葉が、再び思い起こされる。

 

母の名はエノラ=ゲイ(5)―『武器がもたらすもの』

時は巡る。湾岸戦争から12年が過ぎた。湾岸戦争では、劣化ウラン弾が800トンばらまかれたといわれる。そのうちの300トンがバスラで使用された。バスラでは、この12年間で、癌による死亡者数が19倍になっているという。子どもたちの先天性奇形は、特に湾岸戦争時に兵士だった人たちの家庭で発生率が高い。

劣化ウラン微粒子の潜伏期間は、5年間である。ここ数年、家族性の癌や、二重・三重の癌を併発する人が増えている。奇形児たちは、ほとんど人間の形を留めていないほどの姿で生まれ出てくる。自らの肉体と生命を賭して、彼らは人類全体に訴えているかのようである。彼らの身体は、武器を使う人間の心を形にしてみせる。

劣化ウランは、数千kmも風に乗って運ばれるという。

呼吸することで体内に入り、肺に付着し、白血病を引き起こす。消化器や性器などから、異常が広がっていく。その影響力は、45億年続くともいわれている(詳しくは、『月刊保団連 臨時増刊号 827号』などを参照のこと)。現在、自衛隊が滞在しているサマーワでも、ウランが検出されている。

ベトナム戦争で生まれた奇形児たちも、ホルマリン液の中で訴え続けている。

武器を使用された側の人たちのその後について、世界規模でもっと真剣に学ばねばならない。そこが抜け落ちた判断は、外交政策も技術開発方針も、みな、間違った方向へいってしまう。

被爆体験者が個人でアメリカ講演を続けたり、宗教団体が原爆展を開いたり、と、草の根の地道な努力がいくつも続けられている。しかし、世界の平和を願うなら、日本は、アメリカと世界に対して、もっと原爆投下の結果を伝え続けねばならない。

遠ざかるヘリの音を聞きながら、改めて強くそう思った。

 

母の名はエノラ=ゲイ(6)―『標的』

世界で初めて原子爆弾が投下された広島には、第二次世界大戦中、中国、東南アジア、太平洋地域の陸軍への補給物資を送り出す宇品港があった。さらに、米軍に応戦するための第二総軍司令部もあった。これらが、標的となった理由といわれている。

今日、武器ではなく後方支援物資の運搬だけだから、戦闘行為とちがって危険は低い、などという人がいる。敵の燃料の運搬や補給に手を貸すものを、部外者とみなす戦争などありえない。

「エノラ=ゲイ」の3日後に離陸したインプロージョン型原子爆弾「ファットマン」の第一標的も、最初は工業都市小倉だった。小倉の上空視界不良のため、原爆投下地が第二標的の長崎に変更された。悪天候の理由は、八幡への他のB−29による爆撃の煙だったという。有視界度が高ければ、実戦で使われる世界で2発目の原爆が、長崎でなく小倉に落ちていたのである。

原爆搭載記念碑の西側の近くに、旧日本海軍司令部跡がある。一辺が、歩幅にして約70歩の、2階建てのL字型の建物だ。屈強なコンクリート製だったためか、そのまま放置され続けて今にいたっている。2階に続く階段や、炊事場、洗面所といった残骸とともに残る。分厚い外壁の厚さは、なんと広げた手のひら3つ分ほどにもなる。そのあちらこちらが無数にえぐれ、壁の芯となっている鉄骨が折れてむき出しになっている。すさまじい。

60年近く前の爆撃でこの建物が壊れたとすると、本気で武器を使用されたら、身を守る器は作れない、というふうに感じさせる建物だった。それが、7月24日の米軍奇襲上陸によって、たった一日で陥落したという戦いの跡だった。

戦跡が伝える過去は、未来への警鐘に満ちている。

 
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