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本サイト館主の全編書き下ろし
アジア10カ国の戦跡旅行記。戦跡データ&地図、年表、戦争史、写真などの詳細データを付記した、アジア近・現代戦史の手引き書。A5版388頁、2500円
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トップページコラムジャーナリズム点描第4話
第4話「玉砕の光景」・・・スーサイド・クリフの鎮魂碑群から(2004年3月10日)
(1)太平洋の防砦(2)敵前上陸(3)ある家族の場合(4)ある部隊の場合(5)玉砕する人びと

玉砕の光景(1)―『太平洋の防砦』

テニアン島南部にあるスーサイド・クリフの絶壁の上に、いくつかの小さな石碑が建てられている。テニアン島のスーサイド・クリフは、民間人を巻き込んで始めて玉砕したサイパン島に引き続いての玉砕地となったところである(当HPの常設展示「北マリアナ諸島」もご覧ください)。

絶壁の上に建てられた大きなふたつの慰霊塔からほど近いところに、いくつかの小さな慰霊の碑が散在していた。短い下草の中に薄桃色の小さな朝顔のような花が揺れ続けている。「鎮魂不戦之碑」には、何本かの古いお塔婆が倒れかけてあった。「第四中隊慰霊碑」、「南無妙法蓮華経」といった文字の刻まれた石碑のほか、個人の石碑もいくつかあった。ひとつひとつに、この地で亡くなった人びとを偲ぶ、生き残った人びとの、計り知れないさまざまな思いが込められているようだった。

強風にあおられながら、しゃがみこんで、石碑に刻まれた文字をなぞる。読みづらいところもあるが、およそ以下のように読みとれる。

「第83防空隊慰霊塔  太平洋戦争日本国風雲急を告げる、時に昭和19年4月14日、第83防空隊として動員下令、5月15日完結。6月上旬、テニアン島カロリナス台上に進出。第56警備隊に配属。交戦すること数次。田中隊長戦死後、佐藤隊長隊員掌握。士気旺盛一致団結。8月31日この地で賛華。隊員百二十名。残存2名‥」。

「テニアン守備隊海軍第56警備隊最後之地  昭和19年2月。海軍第56警備隊が横須賀にて編成され、同年2月末日日本を出発。3月上旬テニアン島に上陸。7月24日迄米海軍の猛攻に反撃

7月24日、ついに米軍が上陸。数日間の陸上戦の末、米戦軍を目前に大本営に打電。「昭和19年7月31日午后0時0五分、第56警備隊は総攻撃を敢行す。祖国の安泰と平和を祈る」と。後、生存者全員にて最後の盃を司令と交わし、総員突撃を敢行す。残存軍人軍属四百名なり。

世界の平和と戦死者の冥福を祈り、この碑を建立す。この碑の南々西七八百米の断崖上が玉砕の地なり‥」。

上陸された側の最後が刻まれ、語りつがれる。

 

玉砕の光景(2)―『敵前上陸』

『サイパン日記』(ロバート・シャーロッド著、中野五郎訳、筑摩書房、1966)p.228よりの一部抜粋
※戦跡に刻まれた文字の意味を、書籍の中に探してみた。玉砕をキーワードとして、当時の模様を記述した比較的古い2冊の書籍から、一部を抜粋紹介させていただく。一冊は、玉砕していく光景を見ていた米国の従軍記者の日記『サイパン日記』(ロバート・シャーロッド著、中野五郎訳、筑摩書房、1966)。もう一冊は、玉砕していった側の光景を描いた『太平洋戦争写真史 サイパンの戦い』(月刊沖縄社、1980年)である。

「(前略)
船内の拡声機を通じて従軍牧師カニンガム師の声がつたわってきた。

「神の加護により、われわれは成功をおさめることでありましょう。諸君のほとんどすべては生還するでしょうが、しかし、なかには諸君を創造(つくり)たまえる神の御許(みもと)にまいるものもありましょう……諸君の罪を悔いあらためよ……ユダヤの信仰のこれらの言葉を、私の後について復誦されたい……(−ここで彼はヘブライ語の祈祷書のなかから数行の句を読みあげた)…さあキリスト教信者よ、プロテスタントもカトリックも、ともに私の後について復誦されたい・・・・・・」

この従軍牧師が「諸君のなかには神の御許(みもと)にまいるものもありましょう」と言ったとき、甲板の上でちょうど、私のそばに立っていた愛称『トミー』−トムプキンス海兵中佐は、「めっそうもない、よしてくれ!」と、ムカムカするようにどなった。

(中略)

従軍記者のキース・ホイラー君と私は連れだって、ガラパンの町中をあちこち歩いた。せまい、鋪装した通りに沿って、海兵部隊が地雷探知器を使用しながら、地雷を掘り出していた。たいていの家の後庭には牛の死骸が横たわっていたが、大きな両脚がものすごくふくれあがった巨体から水平にピンとつっぱってのびていた。

われわれは、もとは小さい商店であったらしいところに立ちよった。その店の正面の羽目板はたたきつぶされていたが、それ以外はかなり良い状態をたもっていた。内部にはおきまりのシンガー・ミシンがあった。また多数の蓄音機のレコードが破壊物の間に散乱していたが、それは川崎の日本蓄音機会社製のコロムビア盤と、べつの日本の会社製のヴィクター盤であり、さらに奈良の帝国蓄音機会社製のものもまじっていた。そのレコードの題は日本語で記されていたので、われわれには読めなかった。

またある一軒の店先から裸体のマネキン人形が通りに吹きとばされていた。金髪の純然たる西洋風の等身大の人形で、ただ茶色の煉(ね)り物の靴をはいているだけであった。

通りを越して、一軒のきれいな木造の住宅の内部にはたくさんの写真帖が散乱していたが、それは一見して裕福な日本人の家庭のものであった。その中には、西洋風のイヴニング・ガウンの盛装をした日本の女たちと、礼装をした男たちの写真もあった。しかし結婚式の写真は東洋風で、女たちは帯をつけていた。また日本人の野球チームと無表情な小学児童の写真などもあった。

また本のいっぱいつまった箱の中には、いろいろな珊瑚環礁の地図がはいっていた。いくつかの部屋の一面に、下駄や西洋風の革靴が散乱していた。『森永の上等ウエファース』と記した空罐が一個、床の上に落ちていた。

この隣りの家には、蓄音機が三台もあった。その中の二台はまだ使える状態にあったが、レコードは全部、奇妙な単調な東洋風の歌ばかりで、聞いていても退屈するばかりであった。しかしこのもよりにいた数名の海兵たちは、ワグナーやべートーヴェンやバッハの多数のレコード・アルバムを見つけた。彼らは前線に移動するのを待っている聞、それを町かどの店にあった高価な蓄音機にかけてたのしんでいた。この音楽ずきの連中のいた近くに一軒の倉庫があったが、その中には数十俵の米俵と、数百本のありふれた紙につつんだ歯ブラシと、石鹸と便所の紙などが貯蔵されていたが、いずれも日本陸軍の星印のスタムプがおされてあった。
(後略)」

※上陸直後の町の様子は、上陸直前の住民の様子でもある。ついさっきまで続いていた生活が、急にとぎれる。その後、逃げていった人びとの多くが敵弾に倒れ、あるいは、自決していった。

 

玉砕の光景(3)―『ある家族の場合』

『サイパン日記』p.419より一部抜粋
※玉砕の様子をみた、米兵や米軍従軍記者たちの記述が続く。

「(前略)
この空前の大量自決を目撃したいろいろの人たちから、その詳細を聞けば聞くほど、その話はますます信ぜられないようになるばかりであった。

この岩石重畳たるマルピ岬の一帯に四散して立てこもっていた日本兵たちは、降伏することを回避するためには、どんな極端な行動をとることもあえて辞さないのみならず、軍人以外の在留邦人が降伏しないようにするためにあらゆる努力をしたのであった。

海兵都隊は、いまわれわれの立っている断崖のちょうど下方にある一つの洞窟のなかより一名の日本軍の狙撃兵をたたきだそうとくわだてていた。日本兵としては、その狙撃兵はずばぬけた射撃の名人であった。彼はすでに二名の海兵を射ち殺し、そのなかの一名は六三〇メートルの遠距離より命中させた。そしてもう一名の海兵を負傷させたのである。海兵部隊では、この日本兵を洞窟より狩りだすために四五分もかかって、小銃と陸上魚雷と高性能爆薬(TNT)とを使用したのであった。ところが、そのあいだに、この日本兵は別の仕事をした。

彼は、あきらかに父親と母親とその四人の子供たちと見られる日本人の一団が岩上に立って、打ちそろって投身自殺をはかろうとしながら、たしかにその覚悟がにぶって逡巡しているのを発見した。

するとこの日本軍の狙撃兵は、この一団に狙いをつけた。まず最初に、父親を背後より一発で射ち殺して、岩上より海中へ転落させた。ついで彼の恐るべき第二弾は母親に命中した。彼女は苦しそうに岩上を九メートルも身体を引きずるように這っていった。それから彼女は鮮血にまみれながらのた打ちまわった。

かくて狙撃兵は、いよいよ残る子供たちを狙って射撃するところであったろうが、この日本人の母親はにわかに立ちあがって岩の上をかけだし、子供たちを射程外に連れさった。それでその狙撃兵は憤然として洞窟より歩いて出てきたが、たちまち待ちうけたアメリカ兵の数百発の弾丸の下にどっとたおれた。

(中略)

それから、もう一つ恐ろしい死体がありました。それは裸の女で、ちょうど、赤ん坊を産もうとしているときに投身自殺をとげたものでした。それで赤ん坊の頭だけが母胎から出てこの世に生まれながら、母親もろともそのまま死んでしまった。また四、五歳の幼ない男児が、その両腕でしっかりと一名の日本兵の首にしがみつきながら溺死をとげていました。そしてこの二つの死体は、波のまにまに気狂いじみたくらいにかたく密着してただよっていました。そうですね、私はほんとうにこのような数百個の死体を海中で見かけましたよ。
(後略)」

 

玉砕の光景(4)―『ある部隊の場合』

『サイパン日記』p.442よりの一部抜粋
※米軍側からの視線が続く。

私は海兵師団司令都にもどってみると、第六海兵連隊第二大隊のケニス・J・ヘンスレー海兵中尉の物語を聞いた。それは若干の日本兵が岸より数百メートル沖合の暗礁に逃避したので、ヘンスレー中尉が彼らを捕えるために水陸両用車の一隊をひきいて出動したのであった。

この水陸両用車の一隊が接近するや、将校らしい日本兵の一名はその日本刀をスラリと抜いた。するとその部下と見える六名の日本兵は、珊瑚礁の岩の上にひざまずいた。それからその将校は型にのっとるようにして日本刀を振りかぶり、一人一人、部下の日本兵の首を斬りおとした。そしてヘンスレー海兵中尉の指揮する水陸両用車隊が近よるまえに、これらの日本兵の部下の四名の首がコロコロと海中へころがり落ちた。

ついでその将校は日本刀を手にして、水陸両用車隊を目がけて斬りこんできた。ヘンスレー海兵中尉の部下はただちに機関銃火をその日本将校にあびせかけ、彼をその部下のまだ生きのこっていた兵もろともに射ち殺したのである。

ではいったい、このような日本人の自決はすべて何を意味するものであろうか?

それは、鬼畜のごときアメリカ兵が日本人全部を皆殺しに、するであろうという、日本軍自身の宣伝を、サイパン島の日本軍民がともにかたく信じていたことを意味したのであろうか?

多数の軍人以外の在留邦人たちもアメリカ兵に向かって、拷問にかけられるよりはむしろひと思いにただちに殺してもらいたいと願望した。しかし自決を選んだ在留邦人のなかの多数は、アメリカ軍に投降した他の在留同胞が抑留所のなかで、少しも敵対行為を受けずに安心して歩きまわっている光景をながめることもできたのだ。

海兵部隊がマルピ岬で在留邦人婦女子の投身自殺の大半を見かけた当日も一日中、その断崖の上にはラジオの拡声器がいくつも据えつけられていた。そしてすでに投降した在留邦人たちは、他の同胞に向かってよく待遇される旨を説得しながら、投降するように大いにすすめた。

しかし、それでも日本人の自決をとどめることはできなかった。多数の日本人の間には、あらゆることにかかわりなく、死のうとする強烈な推進カがあるように思われた。これらのサイパン島の在留邦人の態度は、総員自決するまえに次のような文字を書きのこして玉砕したペリリュー島(内南洋のパラオ諸島の主島)の日本軍将兵の態度とよく似ているように見えた。

「われらは、わが屍をもって太平洋の防砦を築かん!」
(後略)」

※『サイパン日記』は、戦跡の場所を確定するために手にとった米軍従軍記者の日記だった。敵対する相手側に写った、当時の日本人の姿である。今日、世界各地で、ある教えを信じて自らの命をたつ自爆テロが頻発している。人の命についての印象が強烈だったので、抜粋転載させていただいた。

 

玉砕の光景(5)―『玉砕する人びと』

『サイパンの戦いー太平洋戦争写真史第4回配本』(月刊沖縄社、1980年)より抜粋
※ 玉砕の光景を、今度は玉砕していった側の光景として捉えた書籍を読んでみる。

「<強制引き揚げの630名が遭難>(P.3)

南洋群島の邦人は、婦女子と60歳以上の老人が内地強制送還の対象となり、サイパンに集結、昭和19年3月2日から引き揚げが開始された。第1次、あめりか丸とさんとす丸が、南洋庁職員家族らを含めて各500名ずつ乗せて出航したが、3月6日、あめりか丸は硫黄島沖で米潜水艦に撃沈され、殆ど全員行方不明。その後も、補給船舶の内地帰航に便乗したが、5月31日サイパンを出航した千代丸も撃沈され、便乗者170名中、128名が行方不明となった。米軍上陸時、島に残っていた邦人約2万人は地獄の戦闘に巻きこまれた。無事内地に引き揚げたサイパン邦人は、5,000名。米軍上陸時、島民を含めて民間人は25,000人いたといわれている。

<女、子供を巻きぞえにした最初の戦闘>(p.4-5)

根こそぎの動員

サイパンで死力を尽した日米両軍の正規の戦いのほかに、もう一つの戦いがあった。

本土疎開に取り残された2万人前後の在留邦人の戦いである。

軍は内地から朝鮮人を含めた2,000人の飛行場設営隊を送り込んだが、この軍属だけでは間に合わず、男たちを全員動員した。

疎開を許されなかった16歳以上60歳未満の男子は勿論、国民学校高等科児童、サイパン女学校、同実業学校の生徒、青年団が後方勤務の給仕、看護婦、臨時見習工や補給部隊に動員された。

南洋庁職員は海軍嘱託に、南洋興発の全従業員は軍属に徴集された。在郷軍人を主体にした警防団はもとより、米軍上陸前日の6月14日には、18歳から45歳までの男子はすべて防衛召集された。

工場、学校、資材、食糧は勿論、住宅も接収され、邦人は片すみに追いやられ、避難先も示されぬままに米軍の上陸を迎えた。

米軍、戦慄!

サイパン戦から10カ月後の、沖縄戦でもそうだったが、軍は、それら非戦闘員に殆ど何の手も打たなかった。軍と共に死ねともいわず、米軍の庇護を求めよともいわず、成りゆきにまかせるという無責任な態度をとった。捕虜になるのは国民の恥と教え込まれ、兵士と混同して戦野にさまよった邦人は悲惨であった。米軍の事前の偵察、真昼のような照明弾による、正確な銃砲撃に痛めつけられ、血迷った日本兵からスパイと疑われて殺されたのも数知れず…。

末期、北端に追いつめられると、小学生が集団自決を遂げ、母親が子供を抱いて断崖から身を投げた。父がわが手で子を殺し、自決し損なって生き残った。逃げ切れぬとあきらめたか、軍の慰安所で働いていた女たちでさえ、各地で首をくくって死んだ。

米軍は戦慄した。米軍は本土進攻のテストケースとして民間人対策を重視し、天皇の精神的な影響、支配階層の所在、日本人を味方として利用する程度などの対策をたて、ビラも撒布、捕虜獲得に努めたが、進んで自殺する、という信じがたい光景を数知れず見せつけられては、本土進攻の結果を思いやった。

  日本軍 上陸米軍
参加兵力 42,400人 62,000人
死者 41,244人 3,441人
海没  2,274人 負傷11,465人

※サイパンの陸軍は歩兵3個連隊より成る名古屋編成の第43師団16,000人が主力。

昭和18年8日の住民数(上陸時は不明)
一般邦人 19,348人(8割が沖縄県民)
島 民 3,926人(主としてチャムロ)
外国人 11人(スペイン8、ソ連、コロンボ、中国各1)

※米軍上陸時の民間人推定25,000人

米軍が収容した生存者
日本人 14,424人
うち軍人軍属 4,786人
チャムロ族 2,350人
カナカ族 875人
朝鮮人 1,300人
島 民 602人

※軍人軍属の生存者数の大多数が軍属と推定される。死者。邦人は7,000以上10,000ともいわれるが明確ではない。
(後略)」

※玉砕の光景は、敵から見ても、味方から見ても、戦争を体験として知らない世代の想像を超える。

 
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