ハノイの軍事博物館は、生きている空間、という印象が実に強かった。戦跡を訪ねると、いずれにせよ、ある種の後味の悪さや重さが残る。誤解をおそれずに極端に書けば、それとは逆の、ちょっと元気になるような、実に不思議な空間だった。
特に、他国の軍事博物館系の空間では、使用兵器の展示が伝える化石化した時間や、国家の威信を謳いあげる政治性などは見えても、生身の人間のいぶきを感じることはほとんどない。現実に生きていることを感じさせるものは、「ひこうき、かっこいい」とはしゃぐ幼児くらいである。
ところが、ハノイの軍事博物館は、ベトナム庶民であふれていた。しかも、訪れる人びとの反応に、ある種の明るさがあるのである。被害者としての憎しみを意図的に利用して、別の都合を隠したり正当化する仕掛けが、表面的にはあまり感じられない。それよりも、独立のために応戦しつづけて屈しなかった、という自主性のイメージが強い展示空間となっている。
地上戦が長く続いた当地ゆえに、個人の体験としては、それぞれが大きな悲しみや苦しみを抱えているはずである。それでも、拡大のための搾取の争いではなく、独立のための抵抗だった、という紛争の起点が、戦争の記憶を内面的に明るいものにさせているかのようだった。結果はどうであれ、それとは別次元の話として、その結果を引き起こした行動の“動機”は、非常に重要である。
イラク戦争のように、戦争を始めた動機そのものが、実際には根拠がなかった場合、それで亡くなった加害者としての米兵の遺族も、それに巻き込まれて傷つく被害者の庶民も、その理不尽さゆえに、精神的にも苦しみ続けることだろう。もし、職務として援助に向かった日本の自衛官に劣化ウラン弾の被害が出たと仮定したら、その理由をどう説明づけたら納得できるだろう…。行動の起点としての動機、について、深く考えさせられる博物館だった。 |