| 報道の力(1)―『自国を伝える人』
ホーチミン市の戦争証跡博物館にて(2004年3月31日)
ベトナム戦争は、戦争に関わる兵士と庶民の極限が、写真や映像によって、最も大量に伝えられた戦争である。
米国のジャーナリズム史では、ベトナム戦争をアグリー・ウォー(醜い戦争)、湾岸戦争をクリーン・ウォー(きれいな戦争)、あるいは、ニンテンドウ・ウォー(テレビゲーム戦争)、と呼ぶ。戦争にきれいも汚いもないが、これはメディアで描かれたイメージの話である。
米国では、ベトナム戦争によって、フォト・ジャ―ナリズムが本格的に開花した。一瞬の一枚の中に、人間の内面を捉えこむ。強いメッセージ性が心を揺さぶる。取材者たちの渾身の仕事の結果として、米国国内に反戦ムードが高まり、米国政府は戦争継続からの方向転換を行うに至った。
米国政府は、ベトナム戦争と同じ轍を踏まないようにした。湾岸戦争では、夜間にミサイルが飛びかうテレビゲームのような映像が前面に出され、傷つく人間の画像が極力出ないように、徹底した報道体制のコントロールを行った。報道に関わる職能人たちが意見書を出したが、プール取材(代表取材)はエスカレートし、イラク戦争では、従軍記者たちの軍への埋め込み方式が導入された。
ベトナム戦争当時、戦争の残酷さを伝えたのは、しかし、米国および各国の報道関係者だけではない。ベトナムの報道関係者の手による写真や記事も、各国の通信社経由で世界中に配信されている。実際、ベトナムとカンボジアの戦争で亡くなったり、行方不明になった母国のジャーナリストは多数おり、その名前がびっしりと、ホーチミン市にある戦争証跡博物館の壁に描かれている。
ベトナム報道のイメージは、どこの国の、どんな生い立ちの記者によってなされたのか。かかわった欧米のジャーナリストに関する先行研究は多いが、アジアのジャーナリストに関するものは、日本国内ではあまりみかけない。しかし、米国内の反戦ムードを作ったベトナム報道の一端に、立場はさまざまながら多数の地元ベトナム人たちがいたのは確かである。
報道の力(2)―『フレンチ・スタイル?』
ホーチミン作戦博物館にて(2004年3月30日)
あるいは、ベトナム戦争時の国内報道は、日本の大本営とは異なる広報力を備えていたのかもしれない。
「ホーチミン作戦博物館」や「革命博物館」、「軍事博物館」などを訪れると、当時使用されていた報道や広報用の機材、フィルム、殉職した報道関係者たちの資料や電信機材などが展示されている。報道機関への着目レベルが、他の国に比べて高い。
他の関連資料館や博物館で、戦争当時のもようを伝える展示資料をみていくと、少なからずベトナムの人びとの、断固とした戦い振りや、日焼けした顔に真っ白い歯をみせて笑う誇りにみちた顔、強い光の瞳で抵抗作戦に協力している若い女や、泥まみれをものともせず戦う男の画像にであう。
現地を訪れるまで、ベトナム戦争中のベトナム庶民の、悲壮なイメ―ジが強かった。そのイメージは多分に、日本やアメリカで接したベトナム報道の写真や映像といった報道内容から作られたものである。もちろん、それが戦争の姿だと思う。
この種の先入観があったので、最初は、戦跡展示空間に、白い歯の笑顔は違和感があった。しかし、いくつも訪ねているうちに、庶民の戦争の記憶に対する内面性と、ベトナム国内の報道力の双方に、目を向けるようになった。
笑顔の強さは、あるものはいかにも広報・宣伝用の笑顔と構図なのだが、中には、自然な明るさや力強さを放つものがある。これは、撮影した記者たちの腕前と、実際の空気の双方によるものではないかと思う。思い描いた構図どおりに制作する技術と、被写体そのものが持つ内面性の双方、ということである。
強く明るい瞳の自然な笑顔は、将来の希望を感じさせる。そういった画像に接したベトナムの人びとは、勝利を信じて、戦い続ける気力を取り戻したかもしれない。
仮に‥。ベトナム戦争で、米国国内が写真や映像の悲惨なイメージから厭戦ムードを形成したのに対して、ベトナム国内が写真や映像の力強さから、抵抗の気力を失わなかったとすれば、報道の力はジャーナリズムに限らないことになる。報道力と広報力が紙一重であることは、すでに米国ジャーナリズムでは、第一次世界大戦でとっくに実証ずみである。
ベトナムは、19世紀半ばからフランスとの交流が深い。19世紀末にはすでにフランス統治下にあったから、機材や技術は、欧州のものがふんだんに入ってきたはずである。特にフランスは、絵画や画像の文化が長い。これまであまり意識していなかったが、報道文化の流入が、かなり早い段階で、フランスからベトナムにあったはずである。
ホーチミンで食べるフランスパンは、とてもおいしい。食生活にフランス文化が浸透しているように、メディア文化に欧州流儀が浸透していても、不思議はない。ベトナムの国内報道の歴史と力は、今後検証してみたい課題のひとつである。
報道の力(3)―『遺言』
1924年に、ドイツの新聞研究草創期の中心人物のひとりオスカー・ウェットシュタイン博士が、日本の新聞研究の創始者といわれる小野秀雄博士に、アメリカの実践的新聞教育の祖といわれるウォルター・ウィリアムス博士へ、以下のような伝言をたくしている。第一次世界大戦後のことである。
「欧州大戦に際会して思いついたことであるが、国と国とが互いに戦争に入る前には必ず世論の対立がある。その対立をでっち上げたり、深化するのはいつも新聞である。そうした立場で外交史を見ると、たいていの場合、新聞の対立が戦争に先行する、と判断して誤りはない。だからわれわれが本当に平和を愛するならば、新聞の対立をさけるべきである。従って、新聞学者は平和を愛する記者の養成に努力すべきであるが、さらに一歩を進めて国際間の紛争はまず新聞の間で解決して戦争に陥らないようにすべきではないかと思う。そのためには、国家間の国際連盟のほかに新聞の国際連盟を作るべきであると思う。君がウィリアムズ博士に会ったら、この相談を持ちかけてもらいたい。日本の新聞もそれに加盟するようにすすめてもらいたい」(『新聞研究五十年』小野秀雄著、毎日新聞社、1971年、p.147より抜粋引用)
報道の力についての、達見である。ウェットシュタインの伝言は、すでに遺言である。これら3人の学者は、それぞれ自国で研究と教育を続けようとした。しかし、国内政治事情や世界情勢のなかで、世界はこれら3つの国も大きくかかわる第2次世界大戦へと進んでいき、戦争の世紀として20世紀が過ぎた。今、報道のスピードは瞬時レベルまで到達し、マスコミの影響力は100年前とは比較にならない。
武器を使えば、今日、非常に大きな被害がでることは明白である。報道の持つ力まで武器にしない知恵を、国際レベルで生み出せないだろうか。先人の見識を、今日に生かすことはできないだろうか。 |