1937年12月に、日本軍は南京に侵攻し、南京城を占領した。高い城壁で囲まれた南京市内ではその時、住民に対して無差別大虐殺が行われ、およそ30万人が犠牲になった、というのが中国側の定説である。この記念館は、そのことを後世に伝えていくため、1985年に建てられた(※1)。英語名は、The Memorial Hall of the Victims in Nanjing Massacre by Japanese Invaders (直訳すれば、日本の侵略による南京大虐殺における犠牲者を追悼する公会堂)。
展示館の外側には、30万人をあらわす数字(※2)や、体験証言者たちの足型(※3)、当時の様子を再現するモチーフ、我が子を探しまわる母親像(※4)、体が地面に埋もれ苦痛に顔をゆがめる大型のモニュメント(※5)、いくつもの彫刻や慰霊碑、怖れを表す音響、発掘された多数の人骨、展示室入り口には幼児の亡骸を抱く母の蝋人形、展示室内は、時系列で1930年代から40年代を追うパネル展示のほか、生存者の証言や公文書、当時の新聞や写真などがある。
2002年12月の初訪時は、65年周年記念式典の直後だったので、数多くの菊が飾られていた(※6)。この時は雨が降っており、ダウンコートを着ていたが、半地下にある展示室では、足元からの寒さで体が震えた。年の暮れが近いからか、あまり人はいなかったが、それでも展示室内でひっきりなしに人とすれちがう。
学術交流の一環で訪れた2003年3月の再訪時は、多数の学生が、授業中か課外活動のようで、集団で訪れていた。中庭にはスピーカーから低音の重い音楽が流れている。地元テレビの取材クルーもきていた。ノートをかかえた学生たちがこちらへやってきて、「どう思いますか」と英語でインタビューしてきた。展示内容と、訪問者へのインタビューの両方が授業課題のようで、学生たちはみな、一生懸命メモをとっていた。
館内案内の方が、「中国では亡くなったら高いところに埋める。ここから出てきた骨は、五層になって掘り出されている。(長江に)流されて積み重なったものとしか考えられない」と、厳しい声音で、ガラスの向こうの遺骨群を指さした。
同館の正門から入って右手の塀には、「平和記念」の文字に続き、周恩来氏の「前事不忘后事之師」(以前の出来事を忘れないことが、後の出来事の師となる)(※7)、江沢民氏の「以史鑑為 開創未来」(歴史を鏡として、未来を切り拓く)(※8)という言葉が大きく刻まれている。
アウシュビッツ国立博物館(ポーランド)やツール・スレイン虐殺記念館(カンボジア)に比べると、記録写真を除けば、遺品などの具体的な展示物が少なく、逆に強烈なメッセージ性を放つ造形物が多数配置されている。閑散とした雨の12月と、人でごったがえす3月では、同じ博物館だが受ける印象は全く違った。いずれにせよ「日本軍は酷かった」というメッセージが全体からあふれでる空間構成になっていた。
日本と中国の間で長年の懸案となっている教科書問題では、日本軍が中国に「進出」したのか、「侵略」したのか、その認識の違いから来る記述が大きな争点である。戦争、特に戦争責任をめぐる教科書の記述に関しては、例えばドイツとポーランドの間などでも、長期間にわたる話し合いによって、歴史認識をすり合わせる努力がなされている。
1982年あたりから表面化している日本国内での歴史認識の揺れに対し、中国政府は歴史教育の拠点となる抗日記念館の設立事業を、広く展開してきた。南京の同館は、北京のそれと双璧をなす。2003年3月にお会いした朱館長によると、中国全土には50から60の抗日記念館があるという。展示点数では北京の抗日記念館が一番多いとのことだった
こういった開館の背景と記念館内の構成や演出方法から、同館は非常に政治色の強い空間であると察せられる。しかし、記念館の空間表現や外交上の背景事情といった表層をはずせば、戦跡に残るのものはいつも、どの時代のどこの国でも、政権を握る人びとの判断で行われる戦闘の巻き添えとなる犠牲者、特に力に力をもって抵抗する術を持たない女子どもの恐怖や苦しみ、生き残った者の哀しみや憎しみ、武器を持って闘うことの無残さである。 |