大量虐殺の記念館として、世界で最も著名なアウシュビッツ収容所は、ポーランドの旧都クラカウの町から約50q、バスや鉄道で、2時間弱のところにある。訪問時期がちょうどクリスマス休暇前後とかさなり、交通機関が不定期だったので、1回目はタクシーを使い、2回目はバスを利用した。
日中の平均気温が氷点下に下がる12月のポーランドは、とにかく寒い。太陽の出ている時間が短く、夕方3時過ぎには薄暗くなってくる。厳寒のこの地で、シャツ一枚で生き延びることは、奇跡に近いとあらためて実感する。【当HPの『コラム集』第2話もご覧下さい】。
アウシュビッツ収容所は、28棟の収容棟を持つアウシュビッツ第一収容所(※1)と、そこから3キロはなれた広大なアウシュビッツ第二収容所跡(ビルケナウ収容所、約300棟)(※2)の総称である。この両方の収容所跡をあわせて、国立オシフィエンチム博物館という。アウシュビッツ第一収容所の入り口には、有名な「働けば自由になる」との文字が残っている(※3)。
第二次世界大戦中、ヨーロッパ各地でユダヤ人が迫害された。この地にはヨーロッパ最大のユダヤ人絶滅収容所があった。28民族約400万人(600万人説から150万人説まである)が、1939年から収監され、命を絶たれた。ソ連が侵攻して収容所を開放したのは1945年1月。1947年から、博物館として保存活動がはじまった。「人類の犯した恥ずべき狂気、ナチスドイツが実行した空前の残虐行為が行われた悲劇の地」として、1979年に世界文化遺産に指定されている。
ここは博物館という箱物を作って、遺品や展示品を陳列する、という手法の博物館ではなく、建物も含め土地全体が遺跡である。処刑場、焼却炉、ガス室(※4)、被害者たちの生活空間、加害者の使用していた部屋や病院などが、公開されている。建物の中には、強制労働や殺戮の現場写真、犠牲者の遺品(※5)、犠牲者の遺影(※6)、被害のあった各国の事情をつたえる新聞記事などがよく整理され、展示されている。
アウシュビッツ第一収容所は、写真集などでよく目にするが、実際にはあまり広くない。立派にもみえる外見の収容棟、拷問室の手の込んだ造り、ひとり一つと決められていたかばんやめがね、義足、靴、髪といった遺品の数のあまりの多さなどが、いずれも予想に反していた。
アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ・ブジェジンカ収容所)の方は、短い方の一辺が1Kmをこす広大な敷地(約53万坪)の収容所だった。到着した列車がくぐる「死の門」や、選別がおこなわれたホーム、縦長の木造バラック群の跡(※7)、トイレ跡、焼却炉跡の残骸(※8)、ガス室跡、遺骨をまいた池などが点在している。
ビルケナウ収容所は、一番奥に、さまざまな国の言葉で書かれた国際慰霊碑(※9)がある。国際慰霊碑の横には、『ヒットラーの人民虐殺に対して、自由と人間の尊厳と平和を獲得するために闘って、ここで死にいたったオシフィエンチムの英雄たちに敬意を表する』とポーランド語で刻まれた記念プレートが、ポーランド人民共和国の人びとによって作られている。
国際慰霊碑に向かって右手奥の建物内には、被害者たちがここまで持ち歩いてきた家族写真が、多数展示されている。生きる事を途中で断念せざるを得なかった人びとの、幸せだった在りし日の画像群は、正視に堪えないものがある(※10)。写真が保存され、命が抹殺されていく理不尽さ。
博物館は研究組織を持っており、調査活動、保存・展示に関する研究なども継続的に行われている。教育センター教育部の公式ガイドスタッフに、日本人の中谷剛氏がいる。クリスマス休暇中にもかかわらず、解説をしてくださった。中谷氏は、関係者への聞き取りなどもされている。
博物館の入り口で購入した日本語の案内書には、見取り図やそれぞれの建物の展示内容などが説明されている。館内の書籍販売コーナーには、博物館の資料集や写真集などの主だったものが多数売られている
詳しくは、以下の博物館公式サイト(日本語)を見れば、概要がつかめる。その中から、関連HPリンク集や、博物館館長のコメント、展示内容の写真などにつながっていける。
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/musicandauschwitz/auschwitz/campfotos.htm
数ある展示のなかで、強烈に印象に残ったもののひとつに、3枚の写真がある(※11、※12)。収容所の内部で起こっていることを外部に伝えるために、支援グループを通じてカメラを入手し、監視の目をくぐって現場を捉えたものである。2枚には、焼却炉だけでは処理しきれない大量の遺体を野焼きする様子が映っている。1枚には、衣服を全部脱いだ女性たちが、林の中をガス室に向かって走っていく様子がかろうじて映っている。背後には脱衣中とおぼしき大勢の人びとが映っている。酷く手ぶれを起こしている写真には、写した側の状況の厳しさも映りこんでいる。
政治犯として囚われ、クラカウの反ナチ地下組織に通じていた二人のポーランド人が、1944年9月4日に撮影したものである。彼らは、看守たちの手伝いで遺体処理をさせられていた。自分たちもいつ殺されるか分からない中で、外部へ状況を伝えようとしている。その努力は欧州他国の知るところとなり、状況変化をもたらす大きな一助となったといわれている。
いつの時代にも、どんな状況のなかでも、人はそれぞれに、さまざまな生き方を選ぶ。
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