カンボジアは今日、アンコールワット遺跡群の名で日本人に馴染み深い。しかし、それ以外の現代史や、日本との関わりについては、あまり知られていない。ここは、アジア現代史の中では、内紛が激化した最も新しい現地である。戦時中は日本軍が駐留し、戦後も経済的なつながりが続いている。国民の9割がクメール人で、敬虔な仏教徒(上座部仏教)である。
アンコールワット遺跡群は、プノンペンから飛行機で1時間ほど離れたところにある、シェムリアップという街の郊外一帯にある。アンコール王朝の創設は802年で、1431年にシャム軍に滅ぼされるまでに、広大な石の城をいくつも残している。これらの遺跡が、今日の通称アンコールワット遺跡である。
■カンボジアの歴史
カンボジアの歴史には、数々の紛争が含まれている。アンコール王朝滅亡後は、近隣のベトナムやタイからの圧力を受けてきた。1863年にフランス保護領となり、フランス支配は1953年11月9日の完全独立まで断続的に続く。この間、日本軍が1941年7月から1945年まで駐留している。
フランスからの独立後の1975年から79年にかけては、内紛後の激しい政治的虐殺が国内で行われた。200万人が虐殺されたといわれているが、数字は定かではない。1979年1月9日、ベトナム軍によってクメールルージュの支持するカンボジア民族統一戦線が追放され、民主カンボジア政府が崩壊した。それ以来、1月9日はカンボジアの人びとにとって、虐殺政権からの開放記念日となった。カンボジア人民共和国が成立し、今日のカンボジア王国に至っている。
■プノンペンの戦跡
プノンペンはここのところ、かなり治安が悪いということで、夕方以降は街にでなかった。バイクが多いのはベトナムと同じだが、プノンペンではヘルメット使用者が多かった。訪れた時期が乾季だったこともあり、舗装されていない道路は赤茶けて土ぼこりが舞い上がった。
プノンペンの主な戦跡としては、虐殺記念館として世界的に有名な「ツール・スレイン虐殺記念館」と、「キリングフィールド」がある【ツール・スレイン虐殺記念館については、当HPの特設フォトサロンをご覧ください】。
■シェムリアップの戦跡
シェムリアップは、アンコールワット遺跡訪問の拠点となる小さな街だが、今回訪れた2004年4月には、豪華な大型リゾートホテルの建設ラッシュの真っ最中だった。
市内から一番近いアンコールワット遺跡までは、北へ約7km、車やバイクで15分くらいである。日本の鎌倉彫にも似た深い独特の彫りで有名なバンテアイ・スレイは35km、水の豊かな季節が美しいグバスティエンは50km、ベンメリアは80kmと、遺跡のある場所は付近一帯に散在している。
アンコールワット遺跡群は、それ自体が戦跡といえるかもしれない。アンコールワットの3重になった回廊の一番外側(東西200m×南北180m)には、戦いがモチーフとなった彫刻が多数施されている。人間は10世紀も昔から敵と見方に分かれて戦い続け、権力者は飽くことなく天を目指すことを、遺跡のレリーフが教える。
アンコールワット正面右の菩提樹の下に、カンボジア戦争を取材中に行方不明となり、後に死亡が確認されたカメラマン、一の瀬泰造氏の遺骨が一部埋葬されている。今日、アンコールワットは一大観光地となっているが、ほんの30年前は、人を惹きつけて止まない秘境中の秘境だった。
シェムリアップ周辺で20世紀の戦争の跡をとどめる場所としては、カンボジア戦争で使用された兵器が集められている「戦争博物館」、地雷の被害を訴える「アラキ地雷博物館」、ポルポト政権の大量虐殺の慰霊塔である「キリングフィールド」などがある。
戦争博物館の一番奥の方に池があり、小学校低学年あたりにみえる子が、もっと小さな子供たち3人の面倒をみつつ、池に葉を投げて遊んでいるようだった。みんな男の子で、近づいてみると、池の中に魚がたくさんおり、投げた葉をつつきあって水中に引き込んでいた。遊んでいるのではなく、魚にえさをやっているところのようにもみえた。
ノートに魚の絵を書いてみせると、小さな子たちがキャッキャとよく笑う。こんな子供たちも、おおぜい戦禍に巻き込まれたことだろう。地雷の被害も続いている。
この近辺は、暑いせいもあるが、子供たちの衣服がとても簡素だった。郊外の遺跡へ移動する途中で通った村落には、いたるところに裸同然の幼児が多数おり、子供が子供の世話をしていた。子供をあやす大人の姿はほとんどなく、赤ん坊から6,7歳くらいに見える子供たちが、10人、15人とたむろしていた。
大量虐殺の結果、日本なら孫を見守ってくれる祖父母たちがいなくなってしまった国だった。
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