中国の戦跡訪問は、南京と上海(2002年12月、2003年3月)、北京(2004年2月)などである。
時間にかなり制約があり、地域別にみれば、日中戦争勃発の地である北京市郊外の盧溝橋周辺、北京市内中央の天安門広場周辺、南京の記念館などを主に訪ねた。
■北京市郊外の盧溝橋周辺:
「中国人民抗日戦争記念館」は、北京市を走る環状道路の一番外側よりさらに外側にある盧溝橋から、歩いてほんの数分のところにある。中国で最も規模の大きな抗日の記念館である。館内には、多くのモニュメント、ジオラマ展示、いくつもの展示室があり、音声効果や映像展示もある。入り口においてある小さな日本語のパンフレットには、「中国の青少年の歴史教育基地であり、同時に中日友好の教育基地」であると、紹介されている。1987年に第一期、1997年に第2期工事をおえた比較的新しい記念館で、入館料は15元。
「盧溝橋」は、北京市最古の石造の橋で、日本軍と中国軍が衝突した盧溝橋事件(1937年7月7日)の現場である。橋の両側の欄干ごとに、顔かたちの違う、深い顔立ちの石で出来た獅子の彫刻がずっと並んでいる。1192年当時からの石畳も、橋の中央に残っている。この橋をはさんでの日中両軍の戦闘が映像資料に残っているので、記憶にある人も多いことだろう。
この盧溝橋と抗日戦争記念館の間に、「宛平城」の城壁がほぼ当時のままの姿で残っている。弾丸跡もところどころにある。その城壁ぞいの先に「中国人民抗日戦争記念碑」がある。盧溝橋事件から日中戦争が広がったため、この一帯が、中国にとっての抗日の足跡を伝える一大拠点となっている。
城壁沿いに無数におかれたストーンドラム、戦中の虐殺記録写真をモチーフとして空に向かってそびえたつ何本もの巨大なモニュメント、記念館内の展示方法、どれをとっても、中国の一般庶民が長いあいだ日本に苦しめられ、中国人民が徹底して抵抗し、勝利したことを物語る展開となっている。
■天安門広場周辺
北京市中央に位置するこの広場は、約50万人を収容するといわれる。テレビで見る感じよりはるかに広い。正面に毛沢東氏の肖像を掲げ、その向こうは故宮である。広場の周りは、政府関係の主要な建物が建ち並ぶ。広大な広場には、凧揚げに興じる人たちや、観光記念の写真をとる人たちが大勢いて、楽しそうである。多くは中国の人びとと見受けられた。
夕方、日が斜めになってくると、2月はさすがに寒い。防寒着で装備していても、風が強いと肌を射し、寒さで顔が痛くてじっと立っていられない感じがする。広場の一角に、「人民英雄記念碑」がそびえ立ち、三々五々、人が集まってきては見上げている。新中国設立のために犠牲となった人々を追悼するために、1958年に建てられたものとのことで、高さは約40m。表側の碑文は、『人民英雄永垂不朽』(人民の英雄は永久に不滅)という金文字で彫られている。毛沢東の自筆文字。裏には周恩来の書いた題詞がある。
夕方5時過ぎあたりから、天安門広場の国旗を降ろす儀式をみようと、見物人たちが何重にもなって待っていた。一見してエリートクラスの兵士とわかる、ひときわ背の高い一団が整列して広場を横切ってきて、形式美を見せつつ儀式を終えて立ち去っていった。イギリスの近衛兵のような雰囲気だった。観客たちは嬉しそうだった。その場で見る限り、今日の中国庶民は、兵士の一団に親しみとあこがれのまじったようなまなざしを送っていた。
広場の向こうには、「故宮」エリアが広がる。世界屈指の王宮で、総面積が約72万kuという。15世紀前半に完成し、20世紀初頭に最後の皇帝溥儀が退位するまで、24人の皇帝が施政の拠点としていた場所である。1947年、溥儀が内廷を退去させられると「故宮博物院」となった。この広大な王宮にも、戦前に日本の軍隊がやってきたというのは、想像できない感じだった。
同じ北京市内にある「中国人民革命軍事博物館」は、抗日教育、という目的とは別の空間である。広大な敷地内に、多くの戦車や戦闘機を展示している。古代中国からの兵法や兵器を展示する軍事史博物館で、中国の軍事力を称揚する空間といえる。家族連れが行きかい、小さな子どもたちが兵器の前でポーズをとって、記念写真に納まる。ちいさな祖母や妻子を抱きかかえる中国兵一家の銅像の表情も、笑顔で明るい。
■南京エリア
南京は広い。南京エリアには、日本軍が1937年に南京市へ攻め入った事に関する抗日関係の記念館や記念碑がいくつかある。代表的なものは、水西門近くの記念館と、雨花台の記念館や記念碑などである。他に、孫文の墓陵である広大な中山陵などがある。南京市へは、日本から飛行機の直行便がないので、上海などから鉄道やバスで移動する。
「侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館」は、南京市の中央からタクシーで20分くらいのところにある。広い中庭には、敷地全体を利用したモニュメントや、壁伝いのレリーフなどが多数展示されている。展示館は二つに分かれており、ひとつは、何重にも埋まった人骨層のガラス張りの展示コーナーである。もうひとつは、半分地下になっている展示空間を持つ展示館である。展示内容は主に、中国各地へ進んでいく日本軍の足跡を時系列で整理した展示パネルや、日本軍の組織図、当時の写真や新聞、証言集などとなっている。【詳細は、当HPの特設展示をご覧ください】。
南京市にはいくつかの門がある。「中華門」は明代初期に南京城の正門として造られたもので、中国に現在する最大の城門といわれる。幅118m、奥行き128mある。日本軍の南京市への攻防でも名高い場所の一つで、現在は城壁の上まであがれる。城壁となる石の表面に、落書きのように削って書いた文字が多数あり、時代を感じさせる。
南京市は長江に接しており、そこに「長江大橋」がかかっている。日本軍が南京を攻めた1937年末当時の、多数の遺体が浮いている写真が何枚も記念館に展示されていた。中国側は30万人が亡くなったと主張し、日本には大量虐殺ではないという見方もある。数々の検証研究が続けられている。
訪問した12月中旬は、市内が穏やかな日でも大橋の上はすさまじい突風が吹き、欄干につかまらないとまっすぐ歩けない感じだった。耳たぶの感覚がなくなる。それでも夕刻には車が渋滞し、食材を抱えた自転車が行き交っていた。長江は、東シナ海に注ぐ、長さ6300kmの中国最長の川で、揚子江とも呼ばれている。
広大な台地を占める中国と、小さな島国の日本。両国の歴史観が異なり、若者たちがサッカー場で憤る。戦跡から垣間見ても、両国の歴史観は相当に隔たっていることが分かる。
■ 上海エリア
上海は、中国の長い歴史のなかでも、租界地として複雑な歩みを持つ特別な場所である。今日、観光客に人気のあるバンドエリアも、戦禍は免れ得なかった。欧州でのユダヤ人迫害をようやく逃れてきた人びとがここで日本軍に拘束され、先の映画化であらためて注目されたスパイゾルゲと新聞記者尾崎の交流も、この上海が舞台だった。戦争の世界史を辿りつつ上海を見直すと、別の中国が見えてきて、また興味深い。 |