韓国の戦跡訪問は、2003年3月上旬だった。ソウルは日本から近い。特に九州からは、空路1時間、海路でも1時間半の距離である。3月のソウルは路面が凍りつく寒さで、東京よりも気温がずっと低い。今年は北京市内とその周辺だけしか訪ねる時間がとれなかったが、ソウル周辺だけでも、抗日運動、日本軍による戦禍、朝鮮半島の緊張、ベトナム出兵などの記憶をとどめる場所がいくつもある。
日清、日露の両戦争は、朝鮮半島の支配権をめぐるロシアや中国と日本の争いだった。韓国は、1910年の韓国併合後から1945年まで日本の統治下にあり、日本語教育、皇民化教育が推し進められた。第二次世界大戦後の1948年、今度はアメリカとロシアの東西冷戦のいぶきを受けて、南に「大韓民国」、北に「朝鮮民主主義人民共和国」が成立した。
1950年から53年には朝鮮戦争、1965年から1974年にはベトナム戦争への出兵を経験、その後も38度線をはさんで北朝鮮と対峙しつづけている。この十数年は太陽政策によって、同じ民族である北朝鮮との関係改善に努めてきたが、北朝鮮の核開発などをめぐり、近年また緊張が高まっている。今日、米国との友好関係を前面に出す政策は日本と同様で、国内に米軍の基地がある。あまり表沙汰にならないが、基地のある地域の住民が抱える諸問題も、日本のオキナワに通じるものがある。
■兵士たちの武勲を称揚する場
広義の戦跡のなかで、戦争での功績をたたえる代表的な場としては、広大な敷地を持つ「戦争記念館」がある。ここはもとの陸軍本部のあったところで、1994年に開館している。歴代の紛争で使用された多数の武器・兵器が展示され、兵士の武勲を記念するモニュメントなどが掲揚されている。弟を支え守るために武勲に励む兄の有名な逸話は、韓国の人びとにとって、日本人が特攻を語るのと共通するストーリー展開の構成にあるように思う。
■抗日の記憶を残す場
日本の統治下での抑圧と、それに対する庶民の抵抗の足跡に関しては、ソウル郊外にある「独立記念館」が最も代表的な場所である。ここは時間の都合で訪問できなかったが、同様の記憶の場は、ソウル市内にもいくつかある。
日韓併合後、日本語や日本文化の強要に対する反発は、3.1独立運動となって、朝鮮半島全土に広がった。1919年2月8日の東京での留学生たちによる独立宣言が発端となり、同年3月1日には数万人がソウル市内の「パダゴ公園」に集い、独立宣言を読み上げ、主権回復を要求した。日本の憲兵は武力でその動きを鎮圧していったが、その運動や鎮圧の様子が、12枚の大きな銅版レリーフとなって、今もパダゴ公園内の壁沿いに立てられている。
今日、老人たちが散策し、カップルたちがゆっくりと横切るその公園に、なにげなく飾られているレリーフのモチーフが、「独立万歳」と唱えて素手でバンザイしている当時の庶民を、銃剣などで突き倒している日本人であることに、される側とする側の大きな意識の違いを感じる。韓国国内の認識に比べ、最も近い隣国に日本がそのような足跡を残していることへの自覚が、日本国内にはかなり乏しい気がする。当時の抗日政治犯などを拘留した「西大門刑務所」の跡地には、当時の建物が保存され、当時の記録をとどめる歴史館が作られている。
■戦争の惨禍を、語りと記録で伝える
同じような認識の深いギャップが、日本軍の従軍慰安婦問題にもある。ソウル市内からタクシーで1時間弱行った、雪に覆われた平原のなかに、かつての慰安婦の方がたの住む「ナヌムの家」がある(HPは、www.nanum.org)。
1992年に、この問題の記録、真相解明、解決、被害者支援などを目的として開設された施設である。資料館には、慰安所を再現した空間や資料、遺品、作品などが展示されている。別棟には、ハルモニたちの暮らす住居があり、中庭にはモニュメントなどがある。ここには、同施設で研究員をされている日本人写真家のマリオ氏(やじまつかさ氏)がおられる。週末にいきなりのアポで訪問というこちらの不手際にもかかわらず、快く手助けをしてくださって恐縮した。
訪ねた時間が昼どきにかかったこともあり、ハルモニたちの昼食に初対面のこちらまで誘ってくださった。数種類のキムチやナムル、お魚、ご飯、スープなど。おいしい。80歳前後のハルモニたちと、生活を支援する人びとの暮らしを垣間見る。
ハルモニたちのお話を直接伺う機会をいただくことで、ハルモニたちが何に憤り、何を願っているかがまっすぐに伝わってくる。最も意外だったことは、ハルモニたちが、当時の末端兵士たちのことを、むしろ自分たちと同じような戦争の犠牲者であると、今は受け止めていることだった。爆撃が激しくなって共に逃げまどい、あるいは、船に同乗して沈没の恐怖を味わった兵士への視線が、こちらの予想に反して寛容だった。「きっとみんな死んでしまったはずだよ」とぽつぽつ話す。
数人のハルモニにお話を伺わせていただいたが、いずれも、戦争時の国としての最高責任の所在がどこにあるのか、そこに糾弾の焦点があった。同じ事を、あらためて自らに問いながら、ハルモニたちの終の住みかを後にした。2度と繰り返して欲しくない、という年老いたハルモニたちの姿に、心の中の惨禍は風化しないことを改めて悟る。
■朝鮮半島の緊張の、足跡と今を伝える
それでも、今日も紛争の火種を韓国は抱えている。旧知の韓国人の同業(マスコミ研究)の友人が、是非行ってみるといい、と勧めてくれたのが、「統一展望台」だった。ここは、臨津江をはさんで南北朝鮮が対峙する場である。2階の展望台にのぼると、向こうに北朝鮮がみえる。望遠鏡を使えば、建物や人影も見える。水際に立つ監視所のスピーカーから、大音量でニュースのような口調で何かが向こうに語られている。内容はわからなかったが緊張感がただよう。
展望台の1階は、38度線をめぐる歴史のパネル展示になっている。展望台までは、山の下の駐車場から無料のシャトルバスが往復しており、平日にもかかわらず、毎回マイクロバスに10人前後が乗って、見学に来ていた。
滞在する時間があれば、その先の板門店まで行ってみたかった。同じ民族でありながら、東西冷戦の影響で分断されたのは、ドイツも同じだった。しかし、ベルリンの壁は既に崩壊している。我が家にも、ベルリンの博物館で購入したその壁の一辺がある。
人間が作った断絶を、取り除くことができるのもまた、人間だけである。心の壁を乗りこえて、分断を物理的に埋める。経済格差や、文化交流がきっかけとなることもある。親族や家族が互いに会えない状況のつらさは、北朝鮮拉致被害者家族の姿からも察せられる。今一度、歴史の足跡を見直してみよう。誰が、何のために、アジアの小さな半島を分断したのだろうか、と。
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