サイパンから帰国する時に乗ったタクシーのドライバーが、「昔スペイン、それからドイツ、日本、今はアメリカ」という風に説明してくれた。サイパンがどこの国か、という話である。かつて東南アジアから移住してきたといわれるチョモロ族が、先住民族である。現在は中国人やフィリピン人もともに暮らす。年間平均温度27度という、常夏の島である。サイパン、テニアン、ロタの3島を総称して、北マリアナ諸島と呼ばれている。
北マリアナ諸島は、ポルトガルのマゼランが発見している。1600年代中ごろにスペインが領有化し、キリスト教の布教が活発となって、チョモロ族は迫害された。1899年にスペインは米西戦争の代償として、マリアナ諸島をドイツに売却する。第一次世界大戦では、日本がドイツから支配権を譲り受けた。日本の支配は、第二次世界大戦の終了まで続いた。ひところのテニアン島は、日本の製糖会社が島全部を借り上げて増産にまい進し、サイパン島とあわせて精糖で栄えていた。
しかし、戦局の悪化にともない、日本の戦争にかかわったサイパン島、テニアン島ほか近隣諸島は、日本本土を守るための「絶対国防圏」の中心的拠点へと様変わりしていく。兵力増強が行われ、陸海軍合わせて4万人以上もの守備隊が配備された。しかし、空中戦を得意とする南雲忠一海軍中将(真珠湾攻撃の指揮官)の経験が生かせる戦況にはすでになく、アッツ島での兵士玉砕につづき、民間人を巻き込んだ初の玉砕地となった。
「生きて捕囚の辱めを受けず」との日本の皇民教育は行き渡っており、サイパン住民および軍人・軍属らは、母国日本に一番近い島の最北端で身を投げた。「天皇陛下万歳」と叫びながら自決していったことから、それらの断崖が米軍によって「バンザイ・クリフ」「スーサイド・クリフ(自決の崖)」などと命名された。1944年7月9日に日本軍が陥落する【玉砕については、当HP『コラム集』第4話もご覧下さい】。
テニアン島にも、引き続き米軍が上陸した。島の南東部が玉砕地になった。通称「スーサイド・クリフ」と呼ばれている。テニアン島には大きな滑走路があり、ここからB-29が飛び立って日本本土を焦土と化した。原子爆弾もここで搭載された。
第二次世界大戦後、サイパン島もテニアン島もアメリカの領地となり、戦禍に巻き込まれることもなくなった。表面的には、観光業などで生計をたてる南国のリゾート地となっている。しかし、テニアン島は1976年に島の約3分の2にあたる約7千ヘクタールを、米国に軍用地として貸し出している。使用期間は50年間で、米政府は借地代として3,200万ドルを支払ったという。
戦跡を辿る場合、テニアン島とサイパン島では、様子がかなり異なる。テニアン島は、南国の小さな孤島に近い感じなので、戦争の痕跡はほとんど野ざらしで手を加えられていない。一部は自然に帰り、一部はジャングルに埋もれている。サイパン島は観光地化していることから、戦跡も観光スポット化している。
■テニアン島
テニアン島はサイパン島から約5Kmのところにある。海の流れが速いので、飛行機だと10分だが、フェリーだと1時間近くかかり、かなり揺れる。サイパンやテニアンからの強制引き上げ船3隻のうち2隻が撃沈され、600名以上が亡くなっている。地上戦での玉砕だけでなく、太平洋戦争では南洋諸島方面からの引き上げや強制疎開の途上で海のもくずとなった人びとも多数おられる。
テニアン島は、交通機関も道路標識もほとんどないので、最初は場所確認のために、ホテルで韓国人のガイド兼ドライバーをお願いし、あとはレンタカーを利用した。ガイドさんに「戦跡関係の見所をひととおり回ってください」とオーダーしたところ、次のコースでホテルから島を右回りに、小1時間で一周してくれた。肌が焦げるような昼下がりの炎天下だった。島中に、黄色い花びらのような蝶が無数に舞っていた。
「スーサイド・クリフ」→「テニアン神社跡」→「旧日本軍通信局跡」→「日の出神社跡」→「エーブル滑走路」→「原子爆弾積荷場跡」→「旧日本空軍行政機関司令部跡一帯」→「チュル・ビーチ(米軍の上陸海岸)」→「旧日本人村跡」→「韓国人慰霊碑・日本人慰霊碑」。いずれの場所でもほとんど他の人にあわなかった。たまに出会うのは、陽気な白人観光客の一団だった。
記念館などはひとつもなく、爆撃の跡が著しいトーチカや、鉄骨が剥き出しになったコンクリート製の建物の残骸、放置された戦車など、狭義での戦跡が点在し、50年以上経っているとは思えない生々しさだった。旧日本人村跡だけは、すでにジャングルに埋没しかかっていたが、それでも人の生活の痕跡を感じた。
スーサイド・クリフで、長いこと風の音を聞いていた。島の最南端部に、カロリナス台地という丘陵地がある。その台地の太平洋側の断崖一帯が、自決の場所だった。
眼前に海原が広がる。当時は艦砲射撃する戦艦などが多数展開していたことだろう。断崖に腹ばいになって真下の海を覗き見る。猛烈な突風が、水しぶきを含んで吹き上げてくる。真下の深い紺碧の海に、真っ白い波頭が渦を巻いて沈む。約59年前、7月の数日間にこの周辺から飛び込んで命を断った民間人は、約3500人といわれている。2001年9月11日のアメリカでのテロ事件の犠牲者の数に近い。断崖の上に、沖縄平和記念碑、日本人戦没者慰霊碑、が建てられていた。下草の手入れをしている地元の業者と見受けられる人びと以外に、ほとんど他に人影もなく、波と風の音がゴゥゴゥを響いていた。
島のほぼ反対側に位置するチュル・ビーチは、小さな星の砂が今でもとれる。米軍の上陸地点である。島の南部からと見せかけてここから上陸し、その日のうちに島の北部を制圧したといわれている。近くにエーブル飛行場があり、原爆搭載機の記念プレートがあった。滑走路以外の周辺はみな、うっそうと茂ったヤシなどの雑木林だった【ここでの出来事については、当HP『コラム集』第3話もご覧下さい】。
ふと、沖縄県平和記念資料館で見た映像資料が、まぶたによみがえる。テニアン島が玉砕したあと、痩せこけたぼろぼろの一般邦人男性が、乳児を抱きかかえて、米兵からもらった飴を必死で口移しで食べさせようとしているようだった。まだミルクしか飲めそうにない赤ちゃんだった。
国策で沖縄より移住し、戦禍に倒れた邦人。戦局後退ですでに大本営が死守を放棄した島々で玉砕していった日本守備隊。この島で起きた事と同じことが、その後の1年間、アジア各地の戦地で、沖縄で、繰り返された。海、風、虫、鳥、葉っぱ…。さまざまな音の中に、日本の60年前の歴史がぎっしりと詰まっている。幻の見える島だった。
■サイパン島
サイパンの戦跡を記念するスポットは、全島に散在する。米軍は、徹底した艦砲射撃の後の1944年6月15日に、サイパン南部のサン・ホセからススペにかけての海岸に上陸した。夕日の沈む美しいビーチの水平線手前に、戦車の残骸が今も残る。
近くのビーチ沿いには、白い十字架にアメリカ軍の白い鉄兜をかぶせた記念碑が立っている。上陸作戦で亡くなった3千人近い米兵の功績を伝える記念碑である。そこからしばらく行ったところには、日本人戦没殉難者のための招魂碑が、残留日本人一同の名で、昭和21年6月に建立されている。
島の最北端は激戦地だった。サイパン戦での日本兵戦没者数は推定約4万3千人といわれている。サバネタ岬とラグア・カタン岬の間にある約80mの断崖が「バンザイ・クリフ」、そこに面した標高249mのマッピ山北側の断崖が「スーサイド・クリフ」と呼ばれている。この周辺には今も、多くの遺骨が眠っているといわれる。バンザイ・クリフの突端だけで、大小あわせて30近い慰霊碑が建っていた。
マッピ山の断崖の上には、自決していった人びとを慰める十字架を背負った観音像の建つ「平和公園」がある。山の麓には、トーチカに作り変えて使用した「日本軍の最終司令部跡」、戦車の残骸、「中部太平洋戦没者の碑」、「おきなわの塔」、「韓国人慰霊平和塔」など、無数のさまざまな慰霊や供養の碑が点在している。
「韓国人慰霊平和塔」は、1980年に韓国政府によって建てられている。日本国民であることを強いられた当時の韓国人、北朝鮮人の戦争犠牲者の数は、推定約700人といわれている。この一帯は、韓国人や日本人観光客がよく訪れるとのことだったが、夕方4時を過ぎると警備の人がいなくなり、物取りが頻繁に車を物色するので気をつけるようにといわれた。2度目に訪ねたときは、近くで不発弾が見つかったための処理中で、しばらく交通止めになっていた。警備の人は、よくあることだ、といっていた。
観光客で賑わうガラパン北部には、「アメリカン・メモリアル・パーク」がある。1994年、太平洋戦争終結50周年を記念して作られた広大な公園で、毎年7月の独立記念日には盛大なイベントが行われるという。記念塔には、トルーマン大統領の言葉が刻まれプレートが飾られている。
島の住民が多く住む島の南西部に、「マウント・カーメル教会」がある。島民の墓地のひとつであるが、カトリック様式の墓地のなかに、白い鳥居や灯篭などが混在する。カトリックも神道も、島の人にとっては外部から持ち込まれたスタイルであり、そういったものと常に共存しつつ長年生きてきた島の人びとの姿勢が現れているようで、興味深かった。
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