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228紀念館(台北)
正中記念堂(台北)
忠烈祀(台北)
古寧頭戦史館(金門島)
ディシャン坑道(金門島)
太武山(金門島)
八二三戦史館(金門島)
慈捉(金門島)
馬山観測站(金門島)
国家公園・国家墓苑(金門島)
国民革命軍陣亡将士記念碑
(金門島)
ジューグァン(金門島)

台湾訪問は2004年3月下旬だった。今回は、台湾のなかで最も中国に近い金門島と台北を訪ねた。外務省のHPには、台湾という国名は出てこない。中国も台湾を認めていない。国際上の微妙な立場の変化が、戦跡にも現れ興味深い。

台湾は高砂族が主な原住民で、植民地としての歴史は長い。1600年代前半から、オランダやイスパニアの船がやってきている。中国内での政権抗争の敗者が台湾へ逃れて台湾を統治する、という流れは今日まで続いている。1895年には、日清戦争によって台湾が清から日本に割譲され、その後の約半世紀に渡って日本は台北に総督府を設け、軍隊を派遣して統治した。

台湾島民の日本支配に対す抗日運動は続いた。1930年の霧社事件はその顕著なものである。一方で、日本の文化と台湾の文化が溶け合った部分もある。70歳前後より高齢の住民は、日本語教育を受けた経験がある。

日中戦争から太平洋戦争への進展に従い、台湾は日本の南方作戦の拠点となっていった。島内の交通機関の整備や、特産物であるサトウキビを使った製糖工業の規模拡大など、産業の育成に力をいれ、教育制度も改めた。戦況の悪化にともない、日本の兵員不足を補うために、台湾でも1942年4月に「志願兵」募集がはじまり、1944年9月には徴兵制が施行された。

厚生省の資料によると、戦争に駆り出された台湾人の軍人は8万人を超え、軍属軍夫は12万人を超える。日本の戦争に関わった約20万人の台湾人のうち、約3万人が亡くなっている。こういった戦没者や負傷者は、戦後に日本国籍を失ったため、日本から何の補償も受けていない。場合によっては、南方アジアに徴用され、戦後にBC級戦犯となった人びともおり、物議を今日に残している。

 

■台北エリア
台北に滞在した時期、ちょうど選挙と重なり、台北市内は騒然としていた。数々の歴史の舞台となった朝鮮総督府周辺は、選挙のやり直しを求める市民がつめかけ、昼夜問わずごった返していた。通りかかると旗を渡され、自転車のミニサイレンのようなラッパ売りが、後から後からよってきた。

台湾が、中国との強調路線をとるか、中国との対峙路線をとるか、将来を方向づける選挙となっていた。結果としては、アメリカの支援の追い風を受けて、これまでの対峙路線を踏襲する方向で終結していった。政治的な祭りの色合いが強い感じもあったが、集っている人びとは選挙に高い関心を示しているようで、政治が生きている、という熱気に包まれていた。

訪ねた戦跡の中では、「228記念館」「中正記念堂」「忠烈祀」などが主だったところだろうか。台湾の場合は、抗日の記憶よりも、それ以降の中国本土との紛争の方が今日とのかかわりから見て重要であり、戦跡にもそのことが如実に現れている。

第二次世界大戦の終結によって日本の統治が終わり、台湾は中国への祖国復帰を果した。しかし、希望をもって復帰したはずだったが、中国官僚による台湾統治は反感を買い、1947年2月28日に、228事件が勃発した。蒋介石率いる国民党は、中国共産党に敗れ台湾に亡命し、1949年から1987年まで実に40年近くにわたって、台湾は国民党による戒厳令が敷かれた。

「228記念館」は、この足跡に関する資料館であり、記念館となっている建物自体が、228事件の舞台ともなった。蒋介石は、今日の台湾興隆の政治的シンボルである。それを称揚する場として、総督府のすぐそばに「中正記念堂」が建てられている。記念堂は広大な中正公園の中にあり、白い大理石と青い瑠璃瓦で構成された記念堂は、台湾の国旗の配色と同じである。記念堂内には故蒋介石氏の巨大な像が飾られ、定時ごとに、閲兵交替の儀式が行われていた。ひとりの人間をここまで礼さんするには、徹底した社会階層化が必要だろうと感じる、巨大な公園と建物だった。

中国との緊張関係を支える台湾の軍は重要であり、紛争は身近なものである。こういった外交事情から、功績のあった国民党の将兵たちへの扱いは手厚いものとなっており、武勲を称揚する場として、「忠烈祀」がある。忠烈祀は、1969年に建てられた中国宮殿式の建物で、戦死した約33万人にのぼる国民党の将兵を祀っている。総督府からタクシーで15分くらいのところにあり、ここで定時に行われる閲兵の儀式は強烈な印象となって残っている。

「忠烈祀」は、正門入り口と、奥の拝殿入り口を、ふたりずつの衛兵が守っている。小柄でスリムな衛兵たちは、最初しばらく、ろう人形と見まちがえたほど、いずれも人間の生気を感じさせない。子供たちがはしゃいでからかっても、観光客が隣に来て写真をとっても、微動だにしない。瞳がガラス球のようですらある。どのような訓練を受け、どのような精神状態になると、人間はこうなるのだろう、と深く考えさせられた。

定時の交替式は、様式美を極端に重んじた儀式で、なよなよと曲線を描きつつ、重量のある銃剣を軽々と投げ上げて乱れない。中国の天安門で同様の儀式を演じていった衛兵たちとは全く異質の、実に不思議な、しかし妙な殺気と寒気を感じさせる兵士たちだった。

 

■金門島エリア
金門島は、台北から飛行機で小1時間行ったところにある、中国本土に最も近い島のひとつである。戒厳令が解除される1987年までは、この島全体が要塞としての機能を果たしており、外国人の立ち入りができなかった。現在も地元では英語も日本語もほとんど通じないことと、交通機関に乏しいことから、ガイド兼ドライバーに探訪の助力をお願いした。

島全体が前線基地であることから多数の戦跡が残るが、戒厳令が解除となって10年以上がたち、中国と戦闘状況に突入する現実の危機感がうすれた今日、比較的おだやかな、人気の少ない島という印象になっていた。菜の花畑に無数のモンシロチョウがとびかい、戦跡のあるものはさび、あるものは観光資源化されつつあった。カブトガニが生息し、海辺の岩には小指の先ほど小さい牡蠣のような貝がびっしりとはりつき、島民の食卓にのぼる。

数多い戦跡は、記念館化して再利用しているもの、要塞をそのまま保存して観光化しているもの、墓苑として整備中のもの、の3種類に大別できる。海辺には、上陸を阻止するための地雷原が広がり、潮がひいた海底はコンクリートに突き刺した大きなガラス片で覆われており、生々しい臨場感がある。紛争が過去のものとなりつつある経緯を観察できる場として、非常に興味深い島だった。

記念館化したものとしては、「古寧頭戦史館」「823戦史館」などがある。古寧頭戦史館は、人民解放軍の武力上陸を阻止した記念に建てられた。「金門の熊」と呼ばれるN5A1型戦車が保存展示され、館内には資料などが展示されている。

823戦史館は、1958年8月23日に始まった中国軍との戦闘資料や使用された兵器、戦没将兵たちの名前を刻んだ石版などがある。国民軍の武勲を記念する場となっているが、軍の指導者を宣揚するというよりは、人民や兵士の協力に光をあてた構造となっている。

要塞跡としては、上陸用舟艇の発着基地として作られた地下水道である「ディシャン坑道」、軍が国防のために堤防を作ったことによってできた「慈湖」、中国大陸の対岸までは約2キロしかない金門島最北端の観測所「馬山観測站」などがある。コンクリート製の半分地中に埋まった観測所から中国側を観測する。強風に紫色のあざみがたなびく向こうの海の間近に、中国が見渡せた。

このほか、観光地としてか、あるいは台湾の人びとのための墓苑としてかは定かでないが、大掛かりな公園整備がいくつか続いていた。国立公園としては、「金門国家公園」が歴史的文化遺産と戦争記念の保護を目的として設置され、自然保護も兼ねた国家公園となっている。自然の豊かな島であることから、戦跡だけでなく、自然観察・研究にも力を入れ始めているようだった。

戦跡の入り口で切符を受け取る若い兵士たちの、人懐っこい明るい笑顔にいくつも出会った。戒厳令下の臨戦体制であれば、彼らも戦う兵士なのだろう。平時で良かったと心から思う一瞬である。

名称 中華民国(台湾)
英語名 Republic of China (Taiwan)
国旗
面積 3万6000ku (九州ほどの大きさ)
人口 2248万4364人 (2002年9月)
首都 台北(Taipei)
政治体制 民主共和国
民族構成 漢民族98% 先住民族2%(約11族)
宗教 仏教 道教 キリスト教など
言語 中国語。国語と呼ばれる北京語に対して、台湾語の復権が著しい。
通貨と為替レート 台湾の通貨は台湾元。(略称は元)1元=約3.1円(2004年2月現在)
気候 南北に細長い台湾本島は、中央を通る北回帰線を挟み、北が亜熱帯、南は熱帯に分けられる。台北市は一年中温暖で明確な四季はなく、長い夏と短い冬がある。
日本からのフライト時間

東京→台北(直行便)約3時間20分

中国韓国台湾北マリアナ諸島ベトナムカンボジアタイシンガポール
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