タイは現在、プーケット島やバンコクなど、観光地として日本人に馴染みが深い。日本の約1.4倍の面積をもつ熱帯の国で、人口は日本の約半分。その大半はタイ族で、山岳地帯には様々な少数民族が暮らす。上座部仏教の信仰心に厚く、僧侶が大変敬われている。公用語はタイ語だが、主だった観光地では英語がある程度通じる。
日本との交易は長く、江戸時代になる前に、タイに日本人町ができていた。1939年以前の国名をシャムといい、シャム猫という名前の由来となっている。タイの代表的な料理であるトムヤムクンスープは、今日のエスニック料理ブームを起こした一品である。
■英仏より日本
19世紀末に、アジア各国と同様、タイもフランスやイギリスによる武力攻撃を受けたが、ベトナムやシンガポールのような英仏の植民地にはならなかった。タイは、1902年にタイの皇太子が日本を訪問するなど、日本との友好関係を意識的に築き、欧米と外交調整を続けた。
1932年に専制君主制から立憲君主制に変わったが、この時にクーデターを起こして組閣したプビーン内閣は、日本に支持を求めるなど、第二次世界大戦以前からタイ政府と日本は友好な関係にあった。1940年に再びタイとフランスの間に紛争が起きたが、日本が調停をとりまとめた。
1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲するのとほぼ同時に、マレー半島にも上陸作戦を開始した。
日本軍は、米仏の植民地にならず独立を保っていたタイを拠点として、イギリス植民地となっていたマレー半島やミャンマーを攻撃しようと考えた。タイは日本と敵対するのは不利と判断し、1941年に日本国軍隊のタイ国領域通過に関する日本国タイ国間協定に調印した。
■「泰緬鉄道」
1941年12月に、マレー半島をシンガポールまで一気に占領した日本軍は、その後戦域を拡大し、マレー半島から中国への物資補給路である応蒋ルートを壊滅させるために、ミャンマーからインド方面への進軍を続けた。
中国、および、英米仏軍と戦争状態が続く日本軍は、マレー半島からミャンマーの前線まで兵士と物資を補給するための陸の輸送路として、タイ国内を横断する鉄道の敷設を急ピッチで完成させる計画を作った。タイとミャンマーを結ぶこの鉄道の全長は約415kmで、「泰緬(たいめん)連接鉄道」と呼ばれた。
未開のジャングルを切り開く難工事は、事前の調査で建設に最低5年から8年かかるとされた。しかし日本軍は、不利な戦局を打開するため、人海戦術と突貫工事によって、1942年9月から1943年12月までのわずか1年4ヶ月で、この工事を完了させた。最初の試運転は、43年10月25日の朝といわれる。連合国軍は、工事に使役させられている自国の捕虜に配慮しつつ、工事を妨害するために空爆を繰り返した。
建設に動員された人員は、日本軍約1万2000人。主に、千葉のあたりの人びとで編成された部隊だった。連合軍捕虜約6万人。タイ、ビルマ、マレーシア、インドネシアなどの東南アジア各地からの労働者は、10万人とも20万人ともいわれる。そのうち、捕虜で亡くなった人数は1万6000人、労務者で亡くなった人数は4万人とも7万人ともいわれている。その多くが熱帯雨林と乏しい食事、過酷な労働による極度の体力消耗に加え、コレラや皮膚病など様々な疫病によるものだった。
捕虜のうち、奥地を担当したFフォース7062人の場合は、3096人が亡くなっており、死亡率44%。建設の最終段階では、労働力不足から、病人も死ぬまで労働に従事したという。この処遇は国際法に違反し、大量虐殺に等しいと指摘され、戦後処理のときに戦勝国側から厳しく糾弾された。日本軍関係者で、この工事関係の戦犯として有罪になった人は79名にのぼり、そのうち32名が絞首刑になったとの掲示が、「泰緬鉄道博物館」にあった。
連合軍捕虜の死亡者は、連合軍の共同墓地3箇所に手厚く埋葬されている。しかし、アジア人の労働者たちはそのほとんどが土のむくろとなり、包括的な追跡調査も行われていないので、不明な点が多い。
■カンチャナブリ周辺と「戦場にかける橋」
バンコクからバスで約1時間半のところに、カンチャナブリがある。泰緬鉄道の起点は、ノンプラドックだが、工事敷設の拠点となったのはカンチャナブリである。ノンプラドックは今、とても静かな田舎駅で、駅の向こう側に当時の給水塔が残る。
カンチャナブリには、泰緬鉄道関係の戦跡がいくつかあり、白人観光客で賑わっている。「JEATH戦争博物館」は当時の写真が多数展示されており、正面には「許そう、だが忘れまい」と英語で書かれた碑がある。「連合軍共同墓地」は、カンチャナブリ駅のすぐ近く(徒歩5〜6分)のところにある墓苑で、泰面鉄道建設に関わり命を落とした連合軍兵士6982人の墓碑があるといわれている。チョンカイ共同墓地と、ミャンマー側のタンビュザヤ共同墓地が、同形式の墓苑である。
連合軍共同墓地の前には、2003年に出来たばかりの「泰緬鉄道博物館」があり、2階のカフェから墓苑が見渡せる。
「第二次世界大戦博物館」は、かなり敷地の広い博物館で、武器・弾薬、蝋人形展示などのほか、戦争とは無関係な文化財が多数収納されている。個人資産家のコレクター展示で、まとまったメッセージが提供されている空間ではないが、収納点数は多い。クワイ河鉄橋のたもとにあり、博物館の川沿いから鉄橋の全景が見渡せる。最初に作られた木製鉄橋の一部も館内に保存されている。
「クワイ河鉄橋」は今日も使用されている。石造りの部分が一部は当時のまま残っている(欄干をつなぐ部分がアーチ型の部分)。この鉄橋から数分のところに、日本の鉄道隊が建てた「慰霊塔」がある。鉄道建設工事の間に、病死した各国の労務者や捕虜全てのための慰霊塔で、在タイ日本人により管理されている。毎年3月に慰霊祭が行われているとのことで、訪れた時も管理する人がおられた。
この他、元日本軍通訳だった永瀬隆氏が建立した「平和寺院」などもある。永瀬氏は、戦後処理にもあたり、その後も建設に関する被害状況などの聞き取り調査などを行い、多くの書籍を通して記録と発言を続けておられる。
アカデミー賞を受賞して有名になった「戦場に架ける橋」という映画は、この鉄道のカンチャナブリ近郊にかかっているクワイ河鉄橋建設をめぐる、日本軍と英軍捕虜の話を下地にしている。映画のロケは別の場所で行われており、映画で見るより、実際の橋は小さい印象をうける。映画のストーリーと実際も、異なる点が多い。しかし、映画を見た欧米の人びとの中には、実話として受け止めている人も多いことだろう。
■ヘルファイア・パス
「ヘルファイア・パス記念博物館」は、工事の最難関部のひとつであるヘルファイア・パスでのできごとを記憶にとどめるために、オーストラリアとタイの商工会議所が共同で建てた博物館である。カンチャナブリのバスターミナルから、8230番バスで1時間半ほどのところにあり、開館は1998年とまだ新しい。映像資料展示にインパクトがある。
記念館の裏手下へ降りると、鉄道の通れる幅に岩盤を切り崩した場所を歩いてみることができる。当時の鉄道も一部残っている。予定期間をさらに縮める指令が大本営から発せられ、43年5月以降は現地で「speedo(スピードー)」と語り継がれる号令のもと、オーストラリア人捕虜のDフォース380人のうち、63人(6人に1人の割合)で亡くなったと記録されている。
ヘルファイア・パスの切り立った硬い壁面に、無数にほそい削り跡が残る。手作業で日夜掘りつづけ、痩せこけた労働者たちが明かりにゆらぐ影が地獄絵のようだったという。
国道20号線をさらに西へ進むと、ミャンマーとの国境の町、サンクラブリーに着く。流れる雲の層に様々な色の光が映りこむ、美しい夕暮れだった。川辺の家々から、炊事の煙が何本か立ち上る。素足の男の子たちが、走り回って遊ぶ。黄金色だった山々も程なくして宵に沈み、青黒い空に無数の星に浮き出してくる。
何年も、何十年、何百年も変わらない自然のなかで、穏やかに暮らすように見える人びと。だが、ほんの数十年前には、突然の武力によって狩り出され、帰らぬ身内を待つ体験を持っているだろうか。
完成した鉄道が、実際に前線の物資補給に使用されたのはごくわずかだった。結局は、インパール作戦の失敗により撤退してくる日本軍兵士たちの、引き上げ輸送に使用されつつ、戦争終結へ向かった。今日、地元の人びとが利用しているのは、同鉄道のほんの一部だけで、あとは深いジャングルに埋もれている。人の命が、いったい何のために使われたのか。直接の戦闘現場とは異なった場所でも、多数の人命が失われていく戦争とは何なのか。改めて深く考えさせられる戦跡群だった。 |