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ベトナムの歩み
■日本との関わり
ベトナムは、植民地支配への抵抗と内乱を繰り返してきた。特に中国支配、フランス支配への抵抗関係が長い。日本軍も、1940年から45年まで進駐していた。その間、ハノイなど北部を中心として、ベトナムの人びとに略奪や強制労働などを強いた。
ベトナムの国土は、日本に似て、南北に細長い。日本がベトナム支配に関わった1944年から1945年にかけて、北部は、戦乱によって豊かな大地と海に恵まれた南部との往来をたたれた。さらに、厳しい取り立てと、広範囲の飢饉が重なった。もともと貧しい北部は壮絶な食糧難となり、約200万人のベトナム人が亡くなった、といわれている。
日本は、出兵と兵器生産のために、国内の農業生産力を激減させていた。出兵した兵士たちの食料は、現地調達となった。戦乱末期の日本人の命を支えたベトナムの米は、ベトナム人の命と引き換えの食料だったことを、どのくらいの日本人が知っているだろう。
■仏米への抵抗
1945年に日本の無条件降伏が決まると、ハノイ、フエ、サイゴンを発端として、八月革命が起こった。ポツダム宣言では、北部は中国が、南部はイギリスが日本軍の武装解除を行うことになっていた。しかし、9月からイギリスの協力のもとで、フランスの再侵略が始まり、翌年2月までに北緯15度線以南がフランスの支配下となった。19世紀半ばから始まったフランス支配からベトナムが完全に独立するのは、1954年のディエンビエンフーでの戦いに勝利してからである。
その後、南北の分裂に米国が介入して、ベトナム戦争が1965年に勃発(1975年に終結)。1973年にベトナム和平協定調印、75年にはベトナム戦争が終結した。この間、1970年あたりからは、中国との関係も悪化している。さらに、1978年にはカンボジアへ侵攻するなど、戦乱状態が続いた。
国際的な場で対等の発言ができるようになってきたのは、ここ10年くらいのことで、中国とは91年、韓国とは92年、アメリカとは95年にようやく、国交を回復している。
ベトナムの戦跡
ベトナムは、広く捉えれば国全体が戦跡といえる。
ベトナムの戦跡を訪問した2004年4月は、1954年に果したフランスからの独立70周年の祝賀ムードに湧いていた。ベトナム航空の機内雑誌の特集でも、ホテルで見るテレビ特集でも、急な山道を大勢の人びとが力をあわせて大砲を引き上げる象徴的な構図のビジュアルに、あふれていた。スタジオ中継では、ミュージカル風の演劇仕立てにしてまで、大砲を引き上げるシーンを再現し、おおいに観客の喝采をあびていた。
■ホーチミン市
ホーチミン市は、かつてはサイゴンと呼ばれた、ベトナム南部の中心地である。前述のような歴史的経緯から、フランス文化の影響が強い。訪れてまず驚くのは、市内のバイクの多さと、信号がほとんどない交通ルールである。相手の目線を見ながら、タイミングを見計らいつつ、何車線もある道を横切って、車もバイクも往来していく。歩行者も同様である。
先進諸国は、信号という機械に頼ることで、状況観察力や判断力を失っている。交渉によって物の値段を決める日常のタフさも同様である。この種の生活力が、たとえばベトナム戦争時に、地下通路を三層構造にして生き残っていったベトナム人民のタフさと智恵を、生み出しているかのようだった。
現在のタンソンニャット国際空港や、ホーチミン市内で最高級クラスのマジェスティック・ホテルも、日本軍が使用していた時期があるという【ホーチミン市の戦跡については、当HP『コラム』第6話でもご覧ください】。
■ハノイ
ベトナム北部の中心都市ハノイは、ベトナム戦争当時の北爆で、市内全域に爆弾の雨が降り注いでいる。信号が少なく、バイクが縦横に走る道路事情はホーチミンと同様だが、喧騒や活気はホーチミンに比べれば少ない。
戦争関係の記念館は、ホアロー収容所跡を記念館にしたものが有名で、市内には北爆に関わる慰霊碑や記念碑がいくつもある。
→ ベトナムの日本関係の戦跡については、『調べる 戦争遺跡の事典』(菊地実他編、柏書房、2002年、p.312-314)に関連情報が出ていて参考になる(訪問先の戦跡の印象や関連情報は、各写真をクリックして、サムネールをご覧ください)。
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